トノバン由来と意味は?加藤和彦とは?『トノバン』その時代。あらすじあの曲が

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トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代 と聞いて何を思い出しますか?
昭和時代~平成の時代。

トノバンの由来と意味はどこからきたのでしょうか?

加藤和彦についてみていくことにしましょう!


トノバン 由来と意味は?

トノバンとはシンガーソングライター、

音楽プロデューサーなどなどであった加藤和彦の愛称です

ではこの ”トノバン” とはどういう由来からきているのでしょうか?

意味はあるのでしょうか?

 

1960年~70年代にヨーロッパを中心に活躍した

シンガーである ”ドノヴァン” からつけられた愛称でした。

 

ドノヴァン1965年にデビューしたスコットランド人のフォークロックミュージシャン。

1946年生まれの方ですので2024年現在からさかのぼること約80年前に生まれた方です。

 

デビュー翌年から発表する曲のほとんどが全米1,2位。

スイス、オランダ、ニュージーランドでも1位を獲得されていました。

時代はビートルズの最盛期。

 

彼はビートルズとも親交を深めており

ポール・マッカートニーの作詞に協力したり

ジョン・レノンにギター・テクニックを教えたりして

彼らとコラボを行ったわずかアーティストの一人でした。

 

ですのでドノヴァンは1960年代に

ヨーロッパ、アメリカを中心に活躍したシンガーで、

 

加藤和彦の声がそのドノヴァンと似ていることから

仲間たちがつけた ”愛称だった” ことになります。

 

以上のことから

トノバンの由来はドノヴァンからきています。

トノバンと呼ばれた意味は加藤の声がドノヴァン似ているいう理由からでした。

 

仲間たちが加藤和彦につけた

愛称だったんですね。

 

それほど、加藤和彦の声が良かったんですね。

 

ドノヴァンは凄い活躍したシンガーだったみたいですが

同じ愛称で呼ばれていた加藤和彦とは

どんな人だったのでしょうか?

気になりますね。



加藤和彦とはどんな人?

トノバンこと加藤和彦はどんな人だったのでしょうか?

ざっくりというとこんな感じの方ですが。。。

 

 

加藤和彦は1947年に京都府生まれています。

仲間から親しまれていた愛称は ”トノバン”

 

龍谷大学経済学部中退されています。

大学中退後は音楽の道に進まれています。

 

音楽プロデューサー 作曲家 ギタリスト

 

活動期間 1965年~2009年10月16日

 

楽器や鍵盤楽器等の演奏・歌唱を通じて制作者・実演者として活動されていました。

 

加藤和彦は単なる歌手やギタリストではなく

音楽番組や舞台などを演出する音楽プロデューサーでもあり

作曲家でもあった方で多彩な才能を落ち合わせたという方でした。


もう少しくわしく加藤和彦とその時代とは。。。。

 京都市伏見区に生まれ

生後すぐに両親とともに神奈川県にお引越し。

小学校4年まで鎌倉と逗子市で過ごされています。

 

その後京都に戻るもまた1年で東京に転居。

高校卒業まで日本橋で育たれています。

 

青春のほとんどは東京住まいだったんですね。

サ・フォーク・クルセダーズ結成

1963年に加藤の愛称となったドノヴァンと同じ時代に活躍していた

ロックフォークミュージシャンであるボブ・ディランに影響を受けて

ギターを始めています。

 

加藤が16歳高校1年生の頃です。

当時は男の子がギター片手に弾き語りするのがカッコ良く、

女の子にモテた時代だったのでしょうか。

 

加藤青年は勉強もそこそこにひたすらギターの練習にいそしんでおられたようです。

1965年に東京都立竹台高等学校を卒業後、

仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で

京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学。

 

このころからアマチュア・フォークグループ

「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を始めるくらいに

ギターの腕前を上げていたことになります。

 

このグループ結成にはおもしろ話がありまして

当時引っ越し等で地元に友人も少なかった加藤は

とある雑誌(音楽雑誌ではなく雑誌「MEN’S CLUB」に

”フォークソングメンバー募集!”の広告を出して

集まったメンバで結成されたそうです。

あまりこだわりのない方みたいですね。

 

メンバ‐の学業や帰省などのために

 

当初から1年間だけの活動予定だったそうですが。

メンバーの都合により解散することになり。。

 

 

メンバーの一人であった北山修と加藤の関係について

気になる方はこちらからどうぞ👇

北山修と加藤和彦の関係は?フォークル結成前・バンド時代・解散後
フォークルの愛称で呼ばれたザ・フォーク・クルセダーズ。 わたしはこのグループが日本の音楽に絶大な影響を与えた 考えているのですが。。。 今回は その主要メンバーであった北山修と トノバンこと加藤和彦の関係について、 フォークル結成前、 フォ...

 

 

”このまま辞めちゃうのもつまらないなあ”と

記念に自主制作したアルバム『ハレンチ』を制作。

収録曲「帰って来たヨッパライ」

ラジオ番組で流されたのがことの始まりでした。

 

ここ「帰ってきたヨッパライ」をご存知ない方にどうぞ👇

おもしろい歌ですよね!

この才能には驚きます!

当時は、日本中のほぼすべての?受験生は

深夜ラジオを聴きながら。

そうです。

かの有名なオールナイトニッポン!の

放送が始まったのが

1967年10月2日だったので

丁度、加藤和彦20歳で音楽をし始めた頃だったんですね!

時代の波に乗りましたね!

ラジオ局にリクエストが殺到し

史上初のミリオンヒットに!!

 

全レコード会社から

プロデビューのオファーを受けることになり

このアマチュアバンドは

 

1年間限定でデビューの道へ

先にも書いたように結成メンバーであった北山修三は医大生、

ほかメンバーも帰省予定があり

1年限定が当初の約束だったみたいですね。

 

 

加藤はこの頃結婚しています。

その後、3人の女性と結婚したのですが

加藤和彦が一番愛した妻は誰?

最後に愛した女性は?

についてご興味のある方はこちらからどうぞ👇

加藤和彦が妻の中で一番愛したのは誰?最後に愛した女性は?
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そして68年でグループ解散しソロ活動を開始。

ここにもこだわりのなさが出ていますね(笑)

この時代にはアマチュアのマイク真木や

森山良子がライブで歌っていた時代でした。

 



加藤和彦 あの素晴らしい愛をもう一度

1970年福井ミカと結婚

1971年 北山修との連名による

シングルあの素晴しい愛をもう一度』を発表。

1960年~70年というと

日本では戦後の高度成長期の真っ只中。

日本中が活気づき、

躍進のうねりとなった時代で

時代が求める”変化”の申し子だったのかも知れませんね。

大学中退の18歳から紡いだ音楽。

それが時代の最先端をとらえたんですね。

いつの時代も”若者”が

その時代と

ちょっと先の時代を作り出しているのかも知れませんね

サディスティック・ミカ・バンド結成

1971年24歳。妻のミカをボーカルにして

「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。ロンドンポップ、

グラム・ロック、レゲエ、琉球音階などを

重ね合わせた音色。

ロンドンポップやロック、

琉球音階などどれもこれも

個性的に自己主張しているサウンドですが

これを混ぜわせた音を出すバンドを

結成するなんてことも

型破りな音楽家?演出家?だったようですね。

1973年ナショナル住宅建材(株)(現・パナソニック ホームズ)のCMで

流れていた『家をつくるなら』

ソロ名義のシングル発売。

これがまた当時のCM曲の中でも

ダントツで流行りましたね。

26歳でこの曲を作ってたんですね。凄いっ!

1975年ミカと離婚

離婚にともない

サディスティック・ミカ・バンドも解散となりました。

1976年ソロ活動を再開。

翌年作詞家の安井かずみと再婚

1983年村上龍原作の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』の音楽監督を務める。

以後は多くの映画音楽を手がけられました。

1980年代後半からは舞台音楽も手がける。

もうこの頃は

1人のシンガーソングライターという域を超えておられますね。

市川猿之助と共同で制作した

スーパー歌舞伎は歌舞伎史上初めて

洋楽オーケストラを歌舞伎に

取り入れたものとして画期的な舞台でしたね。

歌舞伎を変えた。という印象がありました。

1984年公開のアニメ映画『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の

劇中歌『愛・おぼえていますか』では

第2回日本アニメ大賞主題歌賞を受賞。

監督だけでは収まりきれずに

やはりシンガーの息が

ふつふつと沸いてこられたのでしょうか。

けれども、やはりヒットしてますね。

1985年38歳6月15日国立競技場で5万人の

観客を集めて開催された国際青年年 記念イベント

“ALL TOGETHER NOW”に

サディスティック・ユーミン・バンド

(ヴォーカルは松任谷由実)として出演し

バンド活動再開!

38歳でバンド再開するアーテイストも

あまりいないですけど

ヒットしたんですよね。凄いですね。

 

2006年、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成。

2006年、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成。

ヴォーカルに木村カエラでアルバム『NARKISSOS』を発表。

2007年には坂崎幸之助とのユニット「和幸(かずこう)」を結成。

そしてかの有名な話、

2009年10月2日松任谷由実のコンサート(東京国際フォーラム会場)に

”黄色いロールスロイス”にギターとヴォーカルで参加。

これが加藤の最後のステージ。

最後の姿となった。

その12日後。。。

 2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルの一室で発見された。62歳没

晩年はうつ病を患い

2009年10月17日の直前にはそれが悪化していたんだそうです。

その3日前には故郷の京都で旧友らと会食している。。

 

ラジオから流れてきた

『帰ってきたヨッパライ』を初めて聞いたとき

一瞬、えっ?となってそのあと笑い転げました。

 

『あの素晴らしい愛をもう一度』を聞いて、

フォークソングが好きになりました。

 

ナショナル住宅の『家をつくるなら』を聞いて、

緑の庭があって、

ちいさい犬が走り回るっている

暖かいマイホームに憧れました。

 

『スーパー歌舞伎』は

観には行かなかったけれど

なにやらどえらいことをしてんだ

。。と思いました。

 

PlayStation 2ゲームソフト『天外魔境III NAMIDA』音楽を聞いて

ゲームはもはや

”こども用おもちゃ”の域を超えた!

と思いました。

トノバンこと加藤和彦は

こんな方だったんですね。

 

出典:Wikipedia


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