『火垂るの墓』実話それとも、フィクション?父母編・清太編・節子編を徹底検証!

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ドラマ映画

高畑勲の『火垂るの墓』。

 

原作は野坂昭如ですね。

 

アニメ映画、

戦争映画というジャンルだけでは

 

納めきれない名作と言われていますが

 

この映画は

野坂昭如が青年時代に経験した

自叙伝を元に描かれています。

 

すべてが実話とも言えないようしたので

どんなところが実話かフィクション、うそなのか?

 

興味が知りたいと思いませんか?

 

今回は父母編、清太編、節子編を徹底検証してみました!

ご興味のある方はご一緒にどうぞ!

 



 

『火垂るの墓』実話それとも、フィクション? 父母編

『火垂るの墓』にでてくる

父母の中に秘められている実話それとも、フィクションを

徹底検証していきたいと思います!

 




 

父母は戦災により死去となった。

父母は戦災により死去されていますが

実際はどうだったのでしょうか?

 

徹底検証!

 

検証:実母,野坂縫(のさかぬい)は

野坂が生後二ヶ月の時に死去されています。

 

実父、野坂相如(のさかすけゆき)は

1899年に生まれ1978年、79歳で死去されています

 

結論:父は戦後、

1978年、79歳まで生きておられました。

 

母は野坂が生まれた生後二ヶ月の時に

死去されています。

 

父母は戦災により死去されたということは

フィクション、うそになると結論しました。

 



 

父は海軍大佐であった。

映画では

父は海軍大佐であった

とされていますが

実際はどうだったのでしょうか?

 

検証:実父、野坂相如は、

日本の土木技術者であり

都市計画の設計者でした。

 

相如は東京で生まれ、

1923年東京帝国大学土木工学学科を卒業後、

 

東京市電気局で地下鉄建設に従事。

 

後に内務省に移籍(1934年)し

群馬県や神奈川県などで都市計画事業に尽力しています。

 

神奈川県で

都市計画課長に就任したのは1939年。

 

第二次世界大戦終戦(1945年)の翌年の

1946年に新潟県土木課長に転出。

 

戦後は新潟県副知事に就任(1947年)し

只見川電源開発問題などの解決にあたっておられました。

 

結論:以上のことから

父は海軍大佐で戦死した。

フィクション、うそでした。

 

野坂は1930年生まれですので

実父が亡くなったのは1978年、79歳で、

野坂は48歳でした。

 

野坂が14歳の頃は

もちろん健在で

神奈川県で都市計画課長として

 

活躍されていた頃であったと推測されます。

 

それにしても

野坂の実父は

都市計画課長として

 

戦後の関東~東北の日本の都市計画を

整えられた偉大な功績を残された方だったんですね。

 

政界引退後は

NHKラジオ番組「とんち教室」の

セミレギュラーとして活躍され

 

創作風流の小噺(こばなし)の

かくし芸はなかなかのものだったようです。

出典:Wikipedia

 




 

母は戦災で大火傷の故に死去した

清太の母が

神戸大空襲の戦災で

全身大火傷を負って

横たわっていた姿が痛々しかったですね。

 

では、実際の野坂の母はどうだったのでしょうか?

 

検証:野坂の実母は

野坂が生後二ヶ月の時に

死去されています

 

しかしながら、

生後二ヶ月の野坂を養子として

引き取ったのは実母の妹でした。

 

妹夫婦は神戸市灘区在住の張満谷愛子、善三夫婦。

 

1945年6月5日にあった神戸大空襲で

養父、善三は死去。

 

養母、愛子は一命は取り留めていましたが

家は全焼しました。

 

野坂14歳の6月でした。

 

結論:母は野坂が生後二ヶ月の時に死去されていますので

大火傷により死去したということは

フィクション、うそになると結論しました

 

養母は神戸大空襲で大火傷を負っていましたが

一命は取り留めておられました。

 



 

『火垂るの墓』実話それとも、フィクション? 清太編

野坂昭如をモデルにした清太についてはどうでしょうか?

徹底検証!していきます!!

 




 

清太は14歳で神戸大空襲に合った

野坂昭如の青年時代をモデルにした清太。

野坂は神戸大空襲にあったのでしょうか?

 

検証:野坂の実母は

野坂を生んで二ヶ月に死去しており

 

父である野坂相如は

生後二ヶ月の野坂を

 

亡妻の末妹愛子と夫、張満谷(はりまや)善三夫婦に

養子に出しています。

 

妹夫婦には子どもがなかったからだと思われます。

 

妹夫婦は神戸在住であったことから

 

野坂は

愛子夫婦の自宅があった神戸で

乳幼児から青年期まで

育てられることになります。

 

14歳の野坂は当時、

神戸の養父母宅に住んでおり

神戸大空襲で被災しています。

 

結論:14歳の野坂は当時、

神戸の養父母宅に住んでいたことから

14歳の頃に神戸で大空襲にあった。は実話でした

 



 

清太は戦争孤児となって叔母を頼って身を寄せた。

清太は戦争孤児となって

叔母を頼って身を寄せていました。

 

検証:神戸大空襲で焼け出された野坂。

養父は死去。

養母は重症の大火傷。

 

もはや頼るべを失った野坂は

西宮市夙川に住む養母の親戚を頼って身を寄せます。

 

結論:叔母ではありませんでしたが

養母の親戚宅に身を寄せています。

親戚宅に身を寄せた。というところは実話となります

 




 

『火垂るの墓』実話それとも、フィクション? 節子編

野坂の妹をモデルにしたと言われている節子ですが、

節子についてはどうなのでしょうか?

 

節子を徹底検証!

 



神戸大空襲当時の節子は4歳であった

4歳の節子が話す

あどけない言葉の一つ一つが切なく胸を打つものでしたね!

 

検証:神戸の養父母は

野坂以外にも養子を2人迎えています。

野坂に義理妹2人となります。

上の妹は

神戸大空襲前に

病死していますので詳細は

不明でした。

 

下の妹、京子は

神戸大空襲の時は1歳4か月の乳幼児でした。

 

結論:節子のモデルとされる義理妹、京子は

神戸大空襲時には1歳4か月でした。

ですので4歳であったことはフィクション、うそとなります

 

この年齢設定は

 

清太14歳と

会話が成り立つ年齢であることが

 

兄妹愛を描き出すためには

なくてはならない年齢設定であったと推測されます。

 




 

節子は清太から大切に扱われていた。

清太が節子に

食べ物を食べさせていたシーンは胸を打ちました。

 

検証:1945年6月5日の神戸大空襲後、

1歳過ぎの年齢だった義理妹京子と

同年7月末まで西宮市夙川の親戚宅に預けられた。

 

疥癬(小さなダニが人の皮膚に寄生しておこる、かゆみを伴う皮膚の病気)

だらけの京子、

食べ物も

ろくに与えられず

飢えた京子はよく夜泣きした。

そのたびに夜、

外に連れ出して

あやしていたが一向に泣き止まなかったので

拳(こぶし)で頭を思いっきり殴ると

泣き止んだことに

度ごとに

 

拳で頭を殴っていたという。

 

のちにある医者に

その時のことをいうと

 

”それは脳震盪を起こしているんですよ。

 

小さい子は

頭が柔らかいから

 

殴られた振動で

脳震盪を起こすことがあります。”

 

と言われ唖然(あぜん)としたと

 

野坂がインタビューで語っています。

 

結論:14歳の食べ盛りの野坂は

自分が食べるだけで精一杯で

義理妹に

食べ物を与える余裕などなかったと推測します。

後に

 あの作品に出てくるほど

僕は妹に優しくなかったから

出典:『名作を歩く』神戸新聞部 神戸新聞総合出版センター刊

と記しているように

『火垂るの墓』の清太は

野坂自身の姿とは

ほど遠かったようです。

 

また、

ぼくはせめて、

小説「火垂るの墓」に

でてくる兄ほどに、

妹をかわいがってやればよかったと、

今になって、

その無残な骨と皮の死にざまを、

くやむ気持ちが強く、

小説中の清太に、

その想いを託したのだ。

出典:野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号掲載)

 

とあるように

節子は清太から

大切にされていましたが

それは

映画の中の

 

兄妹の関係性だけに過ぎず、

 

実際の野坂は実妹恵子を大切に扱ってはいなかった。

結論しました。

 



 

節子の蚊帳の中に蛍が放たれた

衰弱していく節子のためを

慰めようと清太が蛍を放つシーンもジーンと来ますね!

 

検証:蚊帳の中で横たわっている節子が

ほのかな蛍の光を目で追い

「上がった、下がった」という

このセリフに関して

野坂は次のように述べています。

 

 四年の夏、林間学校で、

液体を入れた試験管に封じ込めた玉が、

上部のゴムの膜を押すことで上下、

少し知恵遅れの子供の呟いていた言葉。  出典:ふるさと・文学散歩4 『火垂るの墓』野坂昭如著~三宮・灘・西宮

 

と記されていました。

また、

野坂が疎開した西宮での

原風景について

このように記しています。

 

ぼくが、神戸で空襲にあい、

貯水池のそばの遠縁に、

とりあえず身を寄せたのは

昭和二十年六月八日で、

昼間、

その女主人に宿をたのみ、

すぐ引っかえして、

灘の焼け跡から、

庭に埋めた食料や酒、衣類など、

掘りおこし、

大八車に積み、

石屋川、住吉川、芦屋川と、

川に近づくにつれ、

坂となる阪神国道を

汗にまみれつつ引いて、

夙川の堤防にたどりついた時は、

すでに暮れていた。

 

今度は北に向かい、

後で歩いてみると、

さしたる距離ではないのに、

この時は果てしなく思え、

ようやく谷あいの、

畠の道へ入って、

こやしの臭いと、

かたわらを流れる小川のせせらぎに、

しみじみ生きのびた実感がわき、

前をみると、

おびただしい蛍だった。 

この時の印象を、

ぼくは忘れないだろうと思う。

 

貯水池からの、

溝のような流れだが、

その両岸に水の面かくすほど、

夏草がおいしげり、

その葉先の一つ一つに

青い光が点滅し、

手をのばせば、

いくらもとれる。

掌にくるむと、

蛍の光に指の間が、

ほの赤く浮上り、

ひらくと、

しばらくそのままでいて、

ついと、ゆらめきつつ飛去る

  出典:ふるさと・文学散歩4 『火垂るの墓』野坂昭如著~三宮・灘・西宮

 

野坂が

 

西宮市の遠縁を頼って

疎開した時の

 

原風景に

 

蛍の乱舞があり

 

その風景をモデルに

 

映画では蚊帳の中に蛍を放って光らせた。と推測しました。

 

結論:野坂が実際、

妹のために蚊帳の中に蛍を放っていた。

というのはフィクションでした。

実際は野坂が

小学4年の林間学校で

光る玉が上下に動く様と

西宮市に疎開していた時に見た

 

蛍の乱舞の光景を

モデルに描いたものであり

 

実際に妹のために

蚊帳の中に蛍を放った。

ということはフィクションであると結論しました。

 




 

節子の遺骨はサクマ式ドロップス缶に入れられた。

清太は節子の遺骨を

サクマ式ドロップス缶に入れていました。

 

検証:原作では

サクマ式ドロップス缶に骨を入れるだけの記述でした。

このことに関しては

高畑勲監督がインタビューで次のように述べています。

当時、

私は子どもだったものですから。

どれくらいドロップが貴重で、

得難いもので、

子どもとしては

執着するのは当然なものなんですね。

ところが、原作で妹の骨を入れるためだけに出てくるわけです

出典:「火垂るの墓」DVD映像特典 監督高畑勲インタビュー映像より

 

とありました。

原作には

妹の骨を入れてたのが

サクマ式ドロップス缶であったと

記されていますが

いろいろと調べてみましたが、

妹恵子の遺骨を缶に入れたか

どうかの詳細は

わかりませんでした。

しかしながら、

 

妹が死んだ時、

ぼくは重荷から解放された思い、

悲しみは片鱗もない。

妹の骨と皮の遺体を眼にした。

焼く時、

火加減が判らず、

骨は爪の先ほどしか残らなかった。

何も考えなかった。

出典:ふるさと・文学散歩4『火垂るの墓』野坂昭如著~三宮・灘・西宮

 

とありました。

この野坂が残している言葉からは

栄養失調で餓死した妹恵子の遺骨は

”爪の先ほどしか残らなかった”

とのことから

爪の先ほどの遺骨は

小さくて細いものであって

持ち上げるだけでも

砕けてしまっていたのではないか?

と推測しました。

 

結論:以上のことから

妹の遺骨は爪の先ほどしか残っておらず、

 

缶に入れるだけの形を保つことも困難な

状態だった。

 

缶の中には入れれたとしても

カラカラと音を立てれるほどの硬さは

保てるなかった。と推論しました。

 



 

『火垂るの墓』実話それとも、フィクション?父母編・清太編・節子編を徹底検証! まとめ

いかがだったでしょうか?

 

今回検証した中でフィクション、うそであったと結論したことは:

・父母が戦死したこと。

・父は海軍大佐であったということ。

・母は戦災で大火傷の故に死去した

・神戸大空襲当時、節子は4歳であった

・節子は清太から大切に扱われていた。

・節子の蚊帳の中に蛍が放たれた

 

実話:

・清太は14歳で神戸大空襲に合った

・清太は戦争孤児となって叔母を頼って身を寄せた。

 

推論に止まったこと:

・妹の遺骨は爪の先ほどしか残っておらず

サクマ式ドロップス缶に入れるだけの

硬さの状態ではなかった。

たとえ、

缶の中には入れれたとしても

カラカラと音を立てれる硬さはなかったと

推論しました。

 

となりました。

 

このようにみてきますと、

フィクションであった内容の方が多かったですね。

野坂自身をモデルとした清太に関することは

ほぼ、実話でありましたが

野坂の周りの人である

父母、妹をモデルにした人物像については

フィクションであったことが目立ちました。

昔、『火垂るの墓』を観たとき

胸が苦しくなるほど、

切ない気持ちと悲しさに

押しつぶされそうになった自分に

”映画の中心部分はほとんどフィクションだよ(笑)”

と教えてあげたくなりました!

 

出典:Wikipedia

ふるさと・文学散歩4

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