北山修と加藤和彦の関係は?フォークル結成前・バンド時代・解散後

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フォークルの愛称で呼ばれたザ・フォーク・クルセダーズ。

わたしはこのグループが日本の音楽に絶大な影響を与えた

考えているのですが。。。

今回は

その主要メンバーであった北山修と

トノバンこと加藤和彦の関係について、

フォークル結成前、

フォークル時代、解散後について見ていきたいとおもいます。

よろしければご一緒にどうぞ。



北山修と加藤和彦の関係は?フォークル結成前

結論からいいますとフォークル結成前までは

二人はお互い面識も無いもの同士でした。

フォークルとは加藤和彦、北山修が

当初からのメンバーで

その後はしだのりひこが

メンバーのフォークソンググループとなっていますが

二人以外のメンバーは立ち代わり入れ替わっていました。

 

1965~1968年が活動期間でした。

団塊の世代の方々が青春真っ只中だったでしょうか。。

古き良き昭和の時代でした。

 

ザ・フォーク・クルセダーズ結成は

1965年に京都の大学生であった加藤和彦が

雑誌「MEN’S CLUB」の読書欄で

一緒にフォークをやってくれるメンバーを募集したところ、

京都の医大生だった北山修と

井村幹夫、芦田雅喜、平沼義男の計5人が集まり

アメリカの「ジャズ・クルセイダーズ」から名前を取って、

 

「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトの

「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成しています。

先にも述べましたように北山、加藤以外のメンバーは

入れ替わり立ち替わり変わっていました。

 

雑誌の読書欄に投稿してメンバーを募った

バンドとは成り立ちが面白いですね。

北山と加藤はザ・フォーク・クルセダーズ以前は

お互い会ったこともない者同士でした。




北山修と加藤和彦の関係は?フォークル バンド時代

フォークル バンド時代は

北山修が作詞、加藤和彦が作曲をしていた関係でした。

二人は同い年で身長も北山が179.5cm、

加藤は183cmとともに長身で、

長身もの同士で

” 着る服が簡単には見つからない ”という点で

意気投合していました。

 

トノバンの意味?について知りたい方はこちらからどうぞ👇

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確かに今でこそ、180cmの若者はたくさんいますが

1970年代だと珍しかったのかも知れませんね。

 

二人の住まいも自転車で15~20分ほどで行ける距離にあったようです。

結成時はともに大学入学したてであり

共通の話題も多かったのだと思われます。

 

また、北山は平成30年に受けた取材ではこのようにも語っていました。

加藤と僕との関係については不思議というか、

感謝していることがあります。

そんな天才肌の彼が

「僕を置いていかなかった」こと。

エリート意識が強い人間は

うまい音楽家と組みたがるものだけど、

彼は僕に対するリスペクトを持ち続け、

ずっと友達でいてくれた。

互いに違うキャラだけど尊敬し合い、

必要とする関係。

不遜だけど(ビートルズの)ジョンとポールみたいな関係かな。

出典:THE SANKEI SHINBUN話の肖像画 

北山は加藤のことを天才肌と呼んでいますね。

確かに音楽的な才能は

群を抜いていた加藤でしたが

 

同い年の、同じメンバーを

天才肌と呼べる北山も素晴らしい心の持ち主だと思いました。

 

アマチュアバンドから人気があった

フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)。

活動期間は1965~1968年の3年間。

 

 

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大学1年生で結成したバンドでした。

大学3年ともなれば就活活動がありますし

北山に於いては医学部でしたので実習生となる年でした。

音楽をしている場合ではなかったようです。

 

1967年に解散記念として作った

アルバムの中に入れるためにつくった自作「帰ってきたヨッパライ」が

空前の大ヒット曲となったことは有名な話ですね。

 

解散した後に

この「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットがあったことになります。

北山によりますとこの時、

レコード会社全社からオファーが来て

再結成とプロデビューのは話を持ちかけられ、

当初反対していた加藤も一年だけの約束で

承諾し再結成に至っています。

 

一番最初にデビューできるレコード会社で

一年限りのプロ活動という約束でプロデビューを果たしています。

『帰って来たヨッパライ』は

1968年に開始されたオリコンで

史上初のミリオンヒットになるなど、

 

当時の日本のバンドによるシングル売り上げ一位となる

爆発的売れ行きを見せ、

一躍メンバーは時の人になっっています。

 

どんでん返しのバンドでだったようですね。

「帰って来たヨッパライ」「悲しくてやりきれない」は

当時の若者の心をつかみメンバーは一躍

 

有名な時の人となりました。



北山修と加藤和彦の関係は?フォークル解散後

結論からいいますと解散後、

北山は医学の道に進みつつも作詞活動はしていた。

加藤はソロの音楽家、

バンド活動をして音楽の道を進んた。ということになります。

 

1968年10月17日大阪でのさよならコンサートを開き、

同日の『11PM』に出演。

約束通りに解散したフォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)。

『週刊平凡』1968年9月19日号によると、

14億5000万円の累計売上を上げています。

 

解散後の北山は作詞家として

大成功するも医学の道へ進み

ひたすら勉学にいそしみ無事医学部卒業。

 

その後は音楽活動よりも

医療者としての道を進んでいき

医学博士、九州大学名誉教授、

国際基督教大学大学客員教授、

白鷗大学学長の経歴となっています。

 

一方、加藤はソロ活動を開始し1970年、

のちにサディスティック・ミカ・バンドのヴォーカリスト・ミカになる

福井ミカと結婚するも1975年に離婚。

サディスティック・ミカ・バンドも同年に解散。

1977年、作詞家の安井かずみと再婚。安井が病に倒れ死別。

 

1980年代からは映画、舞台音楽、

スーパー歌舞伎の音楽など

今までの垣根を超えた

さまざまなジャンルの音楽も幅広く手がけていました。

 

名曲「あの素晴しい愛をもう一度」は

表向きは福井ミカとの結婚祝いに作った詩に

北山が作詞をつけたことになっていますが実際は

ひょいなことから加藤が作った曲に

北山が作詞をつけてできた作品で

話題性をつけるために

加藤の結婚祝いにこじつけたことになっていた

のが真実です。

 

結婚式に別れの歌を贈るというのもおかしなことですからね。




まとめ 北山修と加藤和彦の関係は?フォークル結成前・バンド時代・開催後

いかがだったでしょうか。

北山修と加藤和彦の関係は?フォークル結成前、バンド時代、解散後

についてみてきました。

 

わたしは

学生のアマチュアバンドでありながら

わずか3年間で14億円5000万円もの累計売上を上げていたとは

目を疑う売上だと思うのですが。。

これが古き良き昭和の時代だったんでしょうか。

 

飽和状態の令和ではなく、

新しい斬新なものを生み出す力のあった

高度成長期の波に乗った2人だったのだと考察しました。

出典:日刊ゲンダイDIGITAL

   Wikipedia

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