加藤和彦が妻の中で一番愛したのは誰?最後に愛した女性は?

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トノバンこと加藤和彦は複数の女性と

結婚、離婚をしています。

 

わたしはどんな女性たちと結婚していたのかと

興味があったので調べてみました。

 

加藤は妻たちの中で

誰を一番愛していたのでしょうか?

 

気になりませんか?!

 

ご興味のある方はご一緒にどうぞ!



加藤和彦が妻の中で一番愛したのは福井ミカだった?!

 

残念ながら加藤は

今は亡き人となっておられるので

 

本人から真相を聞くことは

誰にもできません。

 

今回、わたしは

加藤和彦の妻たちを

検証させていただいた結果、

 

加藤和彦が一番愛した妻は福井ミカであったと推測しました!

 

なぜわたしがこのような結論に

至ったのかの理由について

 

ご一緒に検証していただければ

幸いです!

 

加藤和彦(かとう かずひこ

本名も同名 1947年3月21日)は

 

3人の女性を妻としたとされています。

 

加藤の最初の妻、

福井 ミカ(ふくい みか

本名:福井光子、1949年4月17日 – )

 

とは

 

加藤の実家は京都で

京都にある龍谷大学在籍中の20歳の時に出会っています。

 

まだ、加藤がアマチュアバンド時代の頃、

 

仲間から ”トノバン” と

愛称で呼ばれていた時代でした。

 

ミカは高校生の18歳。

 

出会いのきっかけは

京都のアマチュア音楽団体AFL。

 

このAFLは

1950年代にアメリカでブームとなったフォークソングが

1960年代に東京の大学生の間で

「カレッジフォーク」として生まれ、

 

60年代後半には

特に大阪や京都を中心とした関西では

「関西フォーク」が流行し

 

やがて

 

「戦争を知らない子供たち」

代名詞として

 

若者たちが

自分たちの言葉でギター片手に弾き語りする

 

日本のフォークが

全国的に広がっていきました。

 

 

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当時の若者たちは2024年現在では

65~75歳くらいでしょうか。

 

一般的に ”団塊の世代” 

呼ばれている年代ですね。

 

2024年加藤がもし存命であれば77歳。

ミカは75歳。

 

当時18歳のミカは

友人とミカ&トンコというバンドを

組んでいました。

 

加藤は当時すでに

アマチュアバンド界では有名な

存在となっていた

ザ・フォーク・クルセダーズ

愛称フォークル)のメンバーの一人。

 

そして福井ミカは加藤のファンで

 

フォークルのコンサートの本番前の

楽屋に押しかけて、

 

いきなり

 

「加藤さん、ギター教えて下さい!」

 

と迫ったという逸話があります。

 

ミカの実家は

京都に山を幾つも持っていたという裕福な家。

 

京都精華短大に進学後、

 

のちになって

加藤の方がミカにぞっこんになります。

 

そして、

加藤の猛烈なアタックが実って

 

「帰って来たヨッパライ」の

大ヒットで

ミカは一躍 “時の人” となっていた

加藤と交際を開始。

 

1968年兼ねてからの約束通り

メンバーの諸事情により

フォークルは解散。

 

解散後はソロ活動をしながら

加藤はミカと交際を続け

当時ボーイフレンドがいたミカへの

猛烈アタックが功を奏し

 

二人はめでたく結婚に。

 

ミカとは1970年7月に結婚し、

 

海外で挙式を上げることが

珍しかった時代に

 

ミカの希望で

カナダのバンクーバーで挙式。

 

加藤23歳、ミカ21歳。

出会ってから3年後だったんですね。

 

しかも結婚の条件として

ミカが出したのは

 

結婚しても料理はしない、

料理も洗濯もしないなどと

 

ミカから突き付けられた

とんでもない条件を

加藤はすべて受け入れ

 

福井ミカは加藤ミカになりました。

 

71年には

ミカをボーカルにした

サディスティック・ミカ・バンドを結成。

 

この料理大嫌い人間がのちに

料理研究家になるとは

当時加藤は想像もしなかったでしょう。

 

順調だった二人に影が。。

 

1974年11月、

サディスティック・ミカ・バンドは

 

セカンド・アルバム

『黒船』をリリース。

 

プロデュースをビートルズを手掛けた

イギリスのクリス・トーマスが

担当することになりました。

 

1975年10月、

サディスティック・ミカ・バンドは

 

ロキシー・ミュージックの

イギリス・ツアーに前座として参加。

 

なんと、

ミカはツアー中にトーマスと恋愛関係に陥ります。。

 

1975年11月、

ミカの浮気とわがままであったにも関わらず

 

「君が幸せになるのなら」と

離婚届にサインをした加藤。

 

それほど、加藤は

 

自分にとって損得ではなく

 

ただ、ミカが幸せでいてくれることを

願ってたんですね!

 

ミカは加藤和彦と離婚。

 

加藤28歳、ミカ26歳。

サディスティック・ミカ・バンドも解散しました。

 

ミカは

トーマスと事実婚状態でロンドンに在住。

 

加藤は23歳で初婚。

 

28歳で離婚を経験しています。

 

当時の若者は早婚だったのでしょうか。

 

学生結婚という言葉も

流行っていたような時代であったと

思われます。

 

福井ミカとの結婚生活は

1970‐1975年の

5年間の結婚期間でした。

 

それから50年ほどのちに

加藤は残念がなら自死しています。

 

加藤が録音スタジオとして使っていた

楽器類や音響機器など

何もなくてがらんとうで

 

唯一、

額装された一枚の写真が壁に飾られていた。

というより

残されていました

 

それは

この記事のタイトル上に掲載されている写真でした。

 

アマチュアバンド時代の

フォークルの開催コンサートに撮られた写真。

 

若い加藤和彦が写っています。

 

”加藤” や 和彦” と呼ばれるのではなく

仲間から

トノバン” と呼ばれていました。

 

この頃、トノバンがぞっこんであったのは福井ミカ。

 

この1,2年後に二人は結婚しています。

 

おそらく、

ミカと離婚後も

加藤はこのスタジオに来るたびにいつも

 

ミカと付き合っていた時代。

ミカと結婚していた時代。

”トノバン”と呼ばれていた時代を

思い出していたのではなかったかと推測します。

 

このスタジオにいる時の加藤にとって、

この写真は過去のものではなく、

 

タイムスリップして

この写真の時代に生きていた

 

のではなかったかでしょうか。。

 

死を決意して

”今の自分” を捨てようとしていた加藤が

スタジオの中を整理して

愛用のギターや楽器を処分していた時に

捨てられなかった ”自分” は

”この写真に写っていた自分”

でした。

それが証拠かのようにこの写真だけが

残されていたのです。

 

それはミカと結婚していた頃の

自分の写真でした

 

以上のことから

 

わたしは加藤和彦が

一番愛した妻は

 

福井ミカであった!と考察しました。

 




加藤和彦の妻 安井かずみへの愛?

 

加藤の2人目の妻は

安井かずみ(愛称ZUZU

本名 安井一美

1939年1月12日~1994年3月17日55歳没)

 

安井かずみは作詞家として有名ですね。

 

 

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曲名を聞けば

思い出される方も多いのではないでしょうか。

 

1965年、伊東ゆかりの

「おしゃべりな真珠」で

第7回日本レコード大賞作詞賞を受賞。

 

同じく伊東ゆかり「恋のしずく」、

小柳ルミ子の「わたしの城下町」、

沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、

郷ひろみ「よろしく哀愁」、

浅田美代子「赤い風船」、

山本リンダ「激しい恋」、

アグネス・チャン「愛の迷い子」

「星に願いを」

「草原の輝き」

 

など数多くのヒット曲を送り出し、

多くの賞を受賞しています。

 

作詞した作品の総数は

約4000曲にものぼるとされていますので

 

昭和の歌謡曲で聞き慣れた曲のほとんどは

 

彼女の作品であるかも知れません。

 

大作詞家でした

 

ふたりの出会いは

加藤がミカと離婚した後の翌月。

 

1975年12月に『TOKYO人形』という

 

かずみのエッセイ集の

出版記念パーティーで出会っているんですね。

 

以前から加藤のファンであったかずみから

 

「明日、電話してください」と誘い

翌年1月初旬には二人は同棲。

 

かずみからのアプローチでした。

 

2年後の1977年に再婚。

 

加藤30歳、かずみ38歳。

 

二人とも再婚同士でした。

 

ミカとの別れを

忘れさせるために再婚したようにも

見受けられる二人の結婚

 

かずみは

1967年新田ジョージと結婚、

69年に離婚しています。

 

しかし、加藤と再婚後、わずか2年目で

1980年かずみの肺がんが発覚します。

 

発覚当時、すでに余命1年の宣告を受けていました。

 

加藤に勧めに従って

闘病生活を送ったかずみでしたが

病魔には勝てず、

1994年55歳で死去されています。

 

1977‐1994年の17年間

 

加藤とかずみの結婚生活は

17年間でした。

 

加藤30歳~47歳、かずみ38歳~55歳。

 

人生の中で活動的な年代を

二人で過ごしたんですね。

17年間のほとんどを

ふたりで病魔と闘っていました。

 

愛があったからこそ、

ふたりは同じ目標である、

 

病魔と闘うことができたと

考察しました。

 

けれども、加藤がかずみに向けた愛は

病魔と闘っている弱者への

いたわりの愛であったのかもしれませんね。

 

そして、

かずみの死去後に新たな女性との出会いが。。。



加藤和彦の妻 中丸 三千繪への愛?

 

加藤の3人目の妻は中丸 三千繪

(なかまる みちえ、1960年7月24日 – )

 

中丸は日本のオペラ歌手(ソプラノ)。

 

1990年に

「マリア・カラス・コンクール」にて、

 

 

イタリア人以外で初めて優勝。

現在まで唯一の日本人優勝者である。

とされています。

 

桐朋学園大学音楽学部(声楽科)

を卒業後、

同大学研究科修了。

在学中よりニューヨーク、ザルツブルクに留学。

 

世界各国の歌劇場で、

プラシド・ドミンゴ、ホセ・クーラ、

など

 

当代一流の音楽家と共演。

クーラ、ダニエル・デッシーらと

 

ローマ国立歌劇場のオペラ全曲版、

ベルリン・フィルとの共演などがあります。

 

日本国内においてもリサイタル・ツアーの他、

フィルハーモニア管弦楽団、

ハンガリー放送交響楽団、

スロヴァキア国立放送交響楽団などの

 

ソリストとして出演。

 

加藤との出会いは

 

1991年まだ安井かずみが病魔と

闘っていて健在

 

加藤とかずみがイタリア取材旅行中に

偶然にも移動の空港で出会っています。

 

その3年後の1994年3月かずみ死去。

 

同年6月に

 

加藤が行ったあるコンサートに

ゲストとして中丸が出演していたことが

 

きっかけとなって

 

交際が始まり10月加藤からプロポーズ。

 

出会って4ヶ月後にプロポーズをしています。

 

そして

 

二人は安井かずみの一周忌前の1995年2月に

入籍しています。

 

加藤は過去に愛した女性を

すぐに忘れることができる方

だったのでしょうか?

と思ってしまうほど

速攻性がありますね。

 

残念ながら

二人の結婚生活は長くは続かず

 

2000年に離婚。

 

しかも、

 

再婚後、

2年足らずで二人は既に別居していたようです。

 

1995‐2000年の5年間が結婚期間でした。

 

中丸への愛は?

 

彼女の音楽性の高さだったのでしょうか?

 

それとも、

加藤にはない音楽性を持った

中丸への尊敬の念からだったのでしょうか?

 

今になっては知る由もありませんが

 

中丸への愛は急速に冷えたように推測しました。




加藤和彦が最後に愛した女性は内縁の妻?

 

加藤62歳が2009年10月16日自死し、

葬儀の時に

遺影を持った女性がいました。

 

憔悴しきった様子もなく、

目をきりっと見開いて、

顔を正面に見据え両手で

 

しっかりと加藤の遺影を持っていた女性

 

彼女の名前等詳細なことは

明らかではありませんが

当時のマスコミは内縁の妻と書いていました。

出棺時には3年間同居していたという30代の女性が遺影を胸に抱いていた。

出典:夕刊フジ2019.10.20 

 

自死するまで苦しんでいた日々を

 

この女性は

3年間も加藤のそばでささえておられたんですね。

 

同記事に掲載されていた

女性の写真もみましたが

 

肩まで伸びる黒髪を後ろでまとめた

美形の女性で

 

年齢もまだ若い30代。

 

本来ならば配偶者が遺影を持つのですが

内縁の妻と言われるこの女性が

遺影を胸に抱いていました。

 

大勢いのマスコミが注目する

出棺時に於いても涙を見せず、

 

悲しみの表情で

正面をじっと見つめたまま。

 

クラクションと同時に発車すると、

深々と頭を下げていました。

 

また、記事には

遺産はこの女性が相続するとみられている。    出典:夕刊フジ2019.10.20 

と書かれていましたが

 

記事には”3年間同居していた女性”とだけ

記されてあったので

婚姻関係があったかどうかは不明です。

 

正しい手続きをした遺言書に

加藤の相続はこの女性に贈与すると

記述されていたのなら

女性が相続されるかと思われますが

 

効力のないメモ類の遺書、口約束的な遺言なら

通常は血縁関係の方が優先されるのだと

思われます。

 

どちらであるかは

明らかではありませんでしたので

 

ここでは言及を控えさせていただきます。

 

加藤のご遺体を乗せた霊柩車が

出発するときに

 

故人に代わって礼をしたかのように

 

深々と頭をさげた ”内縁の妻”

と言われる女性

 

彼女の胸の内を思い図ると

 

わたしの心は

ぎゅっ と苦しくなりました。

 

最後の女性は

”内縁” の ”妻” と記されていましたので

 

ここでは検討から外させていただきました。



まとめ 加藤和彦が妻の中で一番愛したは誰?

 

いかがだったでしょうか。

 

加藤和彦の妻たち。

福井ミカ、安井かずみ、中丸三千繪。

 

安井かずみとの結婚生活が

17年間と一番長かったですね。

 

福井ミカと加藤が結婚したときの

新婚旅行は

音楽仲間総勢20人ほどがカナダとの

音楽交流企画ツアーに便乗する形で

行っています。

 

70年7月 、

バンクーバーの教会でふたりは結婚しています。

 

四十日もの長旅新婚旅行。

ミカにとって

最高の新婚旅行となったようです。

 

のちにミカが語っています

 

トノバン

常に新しい分野に挑戦している人だった。

単なる新しいものが好きではなく、

何でも物事を突き詰めてゆく姿勢が

私は好きだった。

私のワガママを

何でも聞いてくれたし、

結婚の約束通り、

家事のすべてをやってくれた。

私は

皿洗いひとつしなかった」 出典:『ラブ&キッス英国』

 

 

加藤はミカに誕生日プレゼントとして、

ロールス・ロイスを買っています。

 

加藤がミカと離婚後に

再婚したミカも

 

数年後に

イギリス人のクリス・トーマスと離婚しています。

 

帰国した87年

 

その頃、加藤はかずみと夫婦。

 

なんと、この3人が偶然にも

 

ミカと加藤がその昔

まだ若かりし頃に

仲間たちと通っていた

古巣のレストランで出会っています。

 

ウェイターに案内されテーブルにつく。

すると、

すぐとなりの席にいらしたのは、

 

なんと

加藤和彦さんと

安井かずみさんご夫妻だった。

 

加藤さんとは、

私のわがままで一方的に離婚をし、

そのまま私はイギリスに行ってしまったから、

 

いつかお会いする機会があったら、

あのときのことをお詫びしなければ、

と思っていた。

 

ところが、

12年ぶりの再会は、

 

唐突に、

しかも安井さんといっしよ、

 

という意外なかたちでやってきた。

 

いささかうろたえた私だったが、

 

さすがは大人の安井さん。

 

「ミカ、久しぶりね。

よかったらこちらにどうぞ」と誘われ、

 

なんだかわからないうちに

 

同じテーブルについたのだった。

 

加藤さんは、

 

このなりゆきに

少しばかり緊張しているようだったが、

 

それでも

 

「ミカは新しい仕事を始めたんだってね。

シェフだなんて信じられないな」

 

などと話しかけてくれた。

 

私は加藤さんを昔のまま、

トノバンと呼び、

安井さんは和彦さんと呼び合う中で

 

共通の趣味であるテニスのことなどを話題にした。

また、

京都の両親の死を伝えたのであった。 出典:『ラブ&キッス英国』

 

加藤の3人の妻たちの中で

加藤和彦のことを

 

“トノバン”と呼べたのは

ミカだけでした。

 

言い換えれば

 

ミカだけが

加藤が死の間際まで

捨てられなかった ”トノバン” であった

”自分”を

ともに生きた妻だったのです。

 

加藤の死去後に

 

彼が録音スタジオとして使っていた

部屋の壁に

 

額装された一枚の写真。

 

加藤が ”トノバン” と

呼ばれていた時代の写真

 

加藤が唯一残した写真。

 

捨てられなかった自分を映した写真

 

あの頃に戻りたい。という

 

加藤の声が聞こえてきそうです。

 

加藤が戻りたかった時代は

ミカと結婚していた時代。

 

ミカだけが自分のことを ”トノバン” と呼んでくれた

唯一の妻だった

そして

損得なしでゾッコンに愛した妻だったのです。

 

以上のことから

 

わたしは加藤和彦が一番愛した妻は

福井ミカであったと

考察させていただきました。

 

 

もしも、

加藤に会って話すことができるとしたら

 

わたしは

 

冷たくなった加藤のからだを

さすりながら、

 

”いのちかけてと誓った日”を

経験できたあなたは

素敵な思い出を残せた人生だった

 

伝えてあげたいです。

 

トノバン。

 

 

出典:Wikipedia

THE SANKEI SHIMBUM

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