トモエ学園なぜなくなったの。現在の跡地は?小林先生と金子宗作。歴史

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トモエ学園を創設された小林先生。黒柳徹子の出身校であるトモエ学園。トモエ学園はなぜなくなってしまったのでしょうか?そして現在、その跡地には何があるのか?小林先生と金子宗作。トモエ学園の歴史について気になったので調べてみました。

 

トモエ学園はなぜなくなったのでしょうか?

 

トットちゃんに、きみは本当はいい子なんだよ。

と毎日言ってくれた小林先生。非常事態の難を逃れることができましたが

今、トモエ学園はありません。

どうしてトモエ学園はなくなってしまったのでしょうか。

それは ”東京大空襲” でした。

1944年(昭和19年) 太平洋戦争が激しくなり

多くの児童たちがそれぞれの田舎に疎開していきました。

トットちゃんも青森県へ疎開したことが描かれていましたね。

 

昭和二十年四月十五日、午後十時三分。東京大空襲の日。

東京都目黒区の記録によりますと

1945年(昭和20年)4月15日夜から16日未明までにかけて

アメリカのボーイング社が造った

米軍の戦略爆撃機B-29 (航空機)約200機の

焼夷弾(しょうひだん)による波状攻撃で、

東京都目黒区の唐ケ崎町・鷹番町・中目黒2から4丁目・上目黒5丁目・

自由ケ丘

・原町・洗足・月光町・碑文谷3丁目・緑ケ丘地区で死傷者76名、

全焼家屋2,348戸、

罹災者1万1,000名という被害を受けた。とありました。

トモエ学園が建っていたのは東京都目黒区自由が丘でした。

自由ケ丘にあったトモエ学園にも焼夷弾(しょうひだん)が雨のように落とされました。

焼夷弾投下によって広範囲な火災が発生。

疾風が起こって火は火を呼び、

大被害を生じたと記録されている建物の一つに

トットちゃんたちのトモエ学園もあったのです。

戦火はこどもたちの学び舎を容赦なく火の海としました。

小林校長先生が夢と信念をもって設立されたトモエ学園は

戦争の被害にあってしまったのです。

 


トモエ学園 跡地は現在どうなっているのでしょうか?

 

東京大空襲によって焼失してしまったトモエ学園。

トモエ学園が創立された場所は東京都目黒区自由が丘2-15でした。

現在はどのようになっているのか調べてみましたところ。。。

その跡地で営業していたのは

ピーコックストア自由が丘店でしたが

残念ながら2015年に閉店しています。

同じ跡地に

2023年10月20日に

新たに商業施設「自由が丘デュ アオーネ」が開業しています。

敷地面積約3500㎡の施設で

約1000㎡もの広々としたテラスがあって

一年を通して魅力あるさまざまな体験型交流イベントが

開催される予定だそうです。

 


小林先生と金子宗作

では、トモエ学園を創設された小林先生とはどういう方だったのでしょうか?

詳しく見てみましょう。

本名は金子 宗作(旧姓:小林)

戸籍上では長姉が嫁いだ金子家の養子になっておられたので

小林宗作=金子宗作になります。

仕事や著作活動では旧姓の小林を使っておられたので

ここでは小林とさせていただきます。

やはり、自分の家族と同じ苗字で自分のなまえを書きたかったんですね。

1893年(明治26年)6月15日に生まれています。

同じ年には社会運動家の市川房枝がいます。

市川房枝は日本近代史で必ず覚えさせられたなまえでしょうか

家電のシャープ創設者である早川徳治。

今は事業を縮小していますが昔は白物家電の代名詞でしたね。

新三菱重工業社長初代社長の藤井深造。

日本の産業機械 産業エンジン、

化学プラント、製鉄プラントまで、

様々な産業分野で活躍する主要なものを作っている会社です。

日本を代表する作家、吉川英治も同い年。

『宮本武蔵』『新・平家物語』『三国志』『項羽と劉邦』

などを読まれた方もおられるでしょうか?

のちにその偉業を記念して吉川文学賞が設立されているほどの偉人です。

もう一人、日本を代表する小説家、芥川龍之介も同い年なんです。

『羅生門』『鼻』という作品。。

読んだことはないけれど試験問題で作品名を覚えた記憶があります

ちなみに芥川龍之介は養子となって芥川性になられたようですが

実は本名なんです。

そして、お隣の国であり中国では

中華人民共和国(中国)の生みの親である毛沢東が生まれています!

どの人も歴史の教科書には名前が出てくるような人物たちですね。

一つ年上には

1894年生まれの

トヨタ自動車創業者である豊田喜一郎。

世界中の若者たちがあこがれた

トヨタ車の創業者である豊田喜一郎とは

ひとつしか歳がちがわなかったんです。

ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝、

小説家・推理小説で有名な江戸川乱歩(本名 平井太郎)、

パナソニック(元・松下電器産業株式会社)の創業者である松下幸之助。。

このように見てみると

吉川英治や芥川龍之介、パナソニックの豊田喜一郎やシャープの早川徳治など

世界をまたにかけた偉人たちと同じ時代を

生きてこられたんですね。

今の日本の経済界や文化界のもとを作った方々とも

交流があったのかもしれません。

 


トモエ学園はどんな学校だったのでしょうか?リトミック教育と教育方針

小林先生は日本のリトミック研究者・幼児教育研究家として有名な方でした。

群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)の出身

下仁田小学校で代用教員として小学校教員をされていました。

音楽好きだったために音楽の教師になるために教員免許を取得。

東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)を卒業されています。

昔の音楽学校は非常に厳しく

少人数の英才教育を行なっていたそうで

当時の東京音楽学校乙種師範科は、

十四名入学で二名しか卒業できなかったようです。

7人に1人しか卒業できなかったとはすごくきびしい学校でしたね。

小林先生自身も少人数制の英才教育を受けておられたことになります。

この体験が将来のトモエ学園創設の基盤になっているのかもしれません。

若い頃にどのような教育を受けたかが、どんな教師と出会ったかが

その後の人生に大きな影響を与えるものになるんですね。

戦争前の日本で音楽教育に関心を持ち勉強したいと思っていた若き教師がいたことに感動を覚えます

小林先生もトットちゃんもいい教育環境で育たれておられたようです。

大学卒業後は公立の小学校で勤務されていましたが

大正九年に成蹊学園小学部へ移られています。

東京にある成城学園です。

成蹊小学校は、大正四年に創立された私立学校とのことですが、

授業はたいてい午前中で終って、

午後は近郊へ遠足にでかけ植物採集や昆虫採集、

写生や、ゆうぎをしたり

歌をうたったり

教師の話を聞いたりの毎日だったのだとか。。

まるでトモエ学園みたいですね。。

この学校では音楽が重視され、

音楽教室という特別の教室があり、

グランドピアノがあったそうです。

この時代にグランドピアノがあったのだからさすが成城学園ですね。

ここで音楽教室と出会われています。

リトミックを学びたい。いう思いにかられたきっかけとなったのでしょうか。

そんな中で音楽の先進国欧州を見ることを決心します。

ところで旅費ですが小林先生に海外に留学する資金の持ち合わせがあったのでしょうか?

気になりますね。

 

小林先生と岩崎小弥太男爵

当時成蹊学園の理事に三菱財閥の岩崎小弥太(いわさきこやた)男爵方が、

小林先生の作ったオペレッタを見て、

渡欧の費用を全部だしたというのですから、

小林先生の異才ぶりが伺えますね。

この岩崎小弥太は

三菱財閥の4代目社長で

三菱造船、三菱製鉄、三菱電機、三菱内燃機、三菱重工業、

三菱航空機、三菱化成などの三菱を

日本最大の重工業企業集団に成長させて

日本が富国強兵を進める上で

中心的な役割果たす企業集団に成長させた手腕家だった方な

こんなすごい方のサポートを受けれた小林先生はお得でしたね。。

そしてジュネーブでは、

当時国際連盟事務次長だった新渡戸(にとべ)博士に会っておられます

新渡戸博士からスイスの音楽家のダルクローズのリトミックを学ぶことを

勧められたようです(大正十二年)。

スイスまでリトミックの勉強に行かれたんですね。

その内容に感銘した小林先生は、パリに出て、リトミックの学校に入学。

当時のフランスのパリにはリトミックの学校まであったんですね。

その学校で1年間学びんで帰国されたそうです。

留学中の費用なども岩崎小弥太がサポートしたのでしょうか?。

ポイントになるところでキーパーソンに出会っている小林先生だったんですね。

初めていったジュネーブで新渡戸稲造に会うところがすごいですね。

岩崎小弥太の紹介状などももらっていたのかも知れませんね。

日本でリトミックを知ったのではなく

新渡戸稲造の勧めで

スイスの音楽家ダルグローズからリトミックを学ばれたんですね。

これも明治、大正、昭和の時代の流れの中にあったんですね。

けれども小林先生は留学前から、

大正自由教育運動の影響を受けて

就学前・初等教育の段階にある子供たちに、

自由で芸術的な音楽教育を受けさせてあげたいと願っておられたようですね、

今ではリズム体操などは幼稚園から普通に取り入れられていますが

当時は “研究” の対象だったんですね!

 

日本の当時の音楽と言えば

尺八や三味線、和太鼓くらいだったのでしょうか?

ピアノなどの楽器を弾く人も少なかったと思われる時代にしかも

日本は太平洋戦争がはじまり、

男の人達はほとんど兵隊として戦地に赴任して行ってた

時代に2回の留学や

西洋の音楽を取り入れたリトミック音楽を取り入れた

リズム体操を幼稚園児の教育の中に取り入れようとした小林先生

次の時代を見ていたのでしょうか?

当時、敵国である欧州のリトミック音楽を取り入れた教育をしていた

トモエ学園は周りの人たちからは

目をみはるようなものに映ったのではないでしょうか。。。?

わたしが小さかった頃、体操は遊び時間の延長だと思っていたので

体操が勉強の一つであることなど思いもしなかったのでびっくりしました。

恵まれて育ってたんですね。

 


トモエ学園の教育方針。どんな学校だった?

 

ヨーロッパでリトミック教育を学んだ小林先生が

自分の理想とする教育現場であるトモエ学園を作られたのですが

その教育方針とはどのようなものだったのでしょうか?

 

「どんな子も生まれたときには、

いい性質を持っている。

それが大きくなる間に、

いろいろな回りの環境とか、

大人たちの影響でスポイルされてしまう。

だから早く、この『いい性質』を見つけて、

それを伸ばしていき、

個性のある人間にしていこう」
出典:「窓ぎわのトットちゃん」黒柳徹子/講談社

 

とありますがどんな子にも生まれたときにはいい性質をもっている。

と信じた小林先生。

著書「窓ぎわのトットちゃん」には

黒柳徹子のことばで

“小林先生は「君は本当はいい子なんだよ」

と毎日言ってくださいました。

それで私は自分では

「私は、いい子なんだ」と

ずっと思っていたのですけど、

大人になってよく考えてみたら

「本当は」って

いうのが入っていたなと(笑)。” とありますが

小林先生はほんとうにこどもひとりひとりに

やさしくせっしてくださった先生だったんですね。

黒柳徹子のことばにはこんなのもあります。

 

そして ”小林先生がすごいのは、

最初に学校に行った日に

「何でも話してごらん」とおっしゃってくださったことです。

6歳の私は、

喜んで本当にいろんなことを話しました。

話がもうなくなってしまい、

校長先生に「もうない」と言ったら、

「じゃあ、みんなと弁当を食べに行こう」と

先生が言ったので、

学校に着いた朝8時ごろから12時ごろまでの4時間にわたって、

私のお話を聞いてくださったみたいなんです。

そのとき私は6歳でも、

小林先生を「いい人だ」と思ったの。“                              出典:「窓ぎわのトットちゃん」

窓ぎわのトットちゃんの本名は?どんな本と映画?
「窓ぎわのトットちゃん」のトットちゃんの本名は誰なのでしょうか? どんな本と映画なのでしょう。 くわしくみていきましょう。

小林先生は

こどもとおなじ目線で

話を聞いてくれていたんでしょうね。

トモエ学園で小林先生は、

理想の教育を始められました。

開校した年の小学生は一年生から六年生までで約三十名。

複合教育といって、

今で言えば1−2年、

3−4年、

5−6年に別れる

異年齢学級を採用していたようです。

トモエ学園は中学校はありませんでしたが、

みなそれぞれの力に応じて

都立の中学(旧制)や私立の名門校に進学していったそうです。

 


トモエ学園の歴史とは?

では、ここでトモエ学園の歴史について改めてみていきます。

トモエ学園(トモエがくえん)は、

1937年(昭和12年)に東京都目黒区自由ケ丘(現在の自由が丘)に

小林宗作(こばやしそうさく)によって創立されました。

私立幼稚園・小学校(旧姓)が同じ敷地にある幼小一貫校でした。

日本で最初にリトミック教室を実施した学校としても有名です。

このトモエ学園は創立者である小林宗作が

私財を投じて創立させたと言われています。

トモエ学園が創立された同じ年に日中戦争がはじまったので

社会情勢が厳しくなっていく時代に

小林宗作は私財を投じたとはすごい先生だったんですね。

トモエ学園が創立されてから4年後の1941年12月には

日本がアメリカ領土の真珠湾を攻撃した

真珠湾攻撃があったので

どれほど緊迫した社会情勢であったのか想像できますね。

この真珠湾攻撃がひきがねとなって

太平洋戦争~第二次世界大戦に発展していくことになったのですから。。。

日本はアメリカを敵に回して戦争したのです。

そんな時代に創立されたトモエ学園でした。

今やトモエ学園は有名になっていますね。

黒柳徹子が自分の幼少期の記憶をたどって書いた

「窓ぎわのトットちゃん」が発行されたおかげです!

1981年。「窓ぎわのトットちゃん」が発行されました。

発行当初、爆発的売れ行きとなり

当時のNHKニュースで

トラックに山積みにされた本が書店に運ばれている様子が

中継されたほどだとか。。

本がバンバンと売れる時代だったんですね。

では考えられないですが。

 

トモエ学園 歴史 エピソード①創設編

 

トモエ学園は小林先生が創設されましたが

何もないところから創設されたのではありませんでした。

1923年スイス・フランス・ドイツ・イタリア・イギリス留学から帰国後は

東京にある成城学園小学校を設立させています。

そして、

1937年に自由ケ丘小学校(創設者手塚岸衛)の廃校を引き取り、

幼小一貫校であるトモエ学園として改めて創設されています。

小林先生はこうして自分の理想とする教育をする学校を創設されたのです!

1937年トットちゃんが生まれる4年前のことでした。

トットちゃんが入学したのは創立4年の

できたてほやほやのトモエ学園だったんですね。

 


トモエ学園 歴史 エピソード②危機編

 

日本の教育は

古くは江戸時代の寺子屋からはじまって

江戸時代後期に各藩で

武士の教育の場として

私塾というものがありましたね。。

明治時代のはじめには

全国で4500校もあった私立小学校だったみたいですが

大正時代の末には約 100 校までへってしまっていたのだとか。

そののち、

昭和に入り日本が太平洋戦争~第二次世界大戦へ入っていくにつれて

それまでの教育に対する国の方針が代わりに、

1941年(昭和16年)3月に公布された国民学校令で、

従来の小学校制度を廃して

新たな初等教育機関を4月から発足させることになったそうです。

これまでの小学校を国民学校と改め、

初等科6年・高等科2年の8年を義務教育とし、

戦時体制に対応した教育を行うことになったのだとか。

それに先立ち、

昭和 15 年 12 月、「国民学校には私立の国民学校は認めず」という、

文部大臣ラジオ放送が流され

全国の私立小学校は

廃止されるという危機にひんすることになったそうです!

私立小学校連合会のはたらきかけで

なんとか”私立小学校廃園論”が撤廃されたのだとか!

トモエ学園だけではなく日本中から私立小学校を無くすという

”私立小学校廃止論”があったんですね!

しらなかったのでびっくりしました。

それはそうですよね。

世界大戦がはじまっているのに

平和に勉強なんてできる環境ではなかったのだと思います

当時の校長先生たち、

特に東京の私立小学校校長先生たちが中心になって

組織を作りなんとか難を免れたとのことだったので

東京にあったトモエ学園の小林先生も

がんばってくださっていたのではないかと推測されますね。。

よかったですね!

もしも、その決議とやらが通ってしまったら、

トットちゃんが

大好きっだったトモエ学園も転入した一年後には

無くなってしまってたかも?だったんですからね。

 

トモエ学園 歴史 終わり

1941年(昭和16年)3月に公布された国民学校令で、

日本の私立小学校のすべてが存在しなくなる。

という国家的な危機を乗り越えたトモエ学園。

けれども、トモエ学園は焼失してしまいます。

小林先生は路地に出て燃えている学園を見ながら

当時大学生だった長男に

「今度はどんな学校を作ろうか」とつぶやいたという。

逸話が残っていますが

ある意味で炎に包まれて焼失していくトモエ学園を見ながら

ぼうぜん。。。となっていたのかもしれませんね。

1945年(昭和20年)東京大空襲により校舎が焼失したのです。

のちに幼稚園のみ再建されていますが

校舎を焼失した小学校は廃止されました。

1946年(昭和21年)小学校が廃校となり、幼稚園のみで存続

と記録にあります。

トモエ学園を失った小林先生は

茨城県土浦の海軍少年飛行隊で

リズムや音感の訓練教育を担当されていました。

終戦後、昭和25年に国立音楽大学付属幼稚園を創立し、

トモエ幼稚園も亡くなる直前まで経営されていたのだとか。

しかし、ある日、脳梗塞で倒れ、

昭和38年2月8日に亡くなられました。

享年69歳だったそうです。

同じ年のきんさんぎんさんが

106、107歳まで長生きされていることを思うと

69歳で亡くなるとは。。

早すぎるような気がして残念です。

 

1963年(昭和38年)小林の死去に伴い幼稚園を閉園しそれ以後休校。

1964年(昭和39年)事実上は廃園となる

1978年(昭和53年)トモエ学園幼稚園の廃園届が認可されています。

こうしてトモエ学園は名実ともに無くなりました。

 


トモエ学園が有名になった理由は?

1981年、黒柳徹子48歳の時に「窓ぎわのトットちゃん」が出版されました。

それまで世間に知られていなかったトモエ学園でしたが

本の出版をきっかけに一躍有名となったのです。

「窓ぎわのトットちゃん」 は

初版から現在まで108刷を重ねるほどになり

単行本だけで585万部を売り上げた

戦後最大のベストセラーになったんですからたいしたものですね。

そして「窓ぎわのトットちゃん」は

「最も多く発行された単一著者による自叙伝」として

ギネス世界記録に認定されたのですからすばらしいですね。

2023年9月末の全世界累計数が25,113862部(2,511万3,862部)!

2023年12月14日にギネスワールドレコーズから認定証が贈られたんだそうですよ。

本を書いた黒柳徹子も書きはじめた時に

まさか42年後に

自分の自叙伝本が

ギネス世界記録に認定されることになるとは

夢にもおもっていなかったのではないでしょうか。

 

いかがだったでしょうか。

トモエ学園なぜなくなったの?

それは第二次世界大戦中の東京大空襲で

焼夷弾の被弾にあい焼失してしまいました。

そして現在の跡地には

2023年10月20日に商業施設「自由が丘デュ アオーネ」が開業しています。

金子宗作という見慣れない名前がでてきましたが

小林宗作の戸籍上の名前となります。

ですので小林先生は通称で通されておられたことになります。

小林先生が創立された

トモエ学園の歴史の流れについて見てきました。

トモエ学園が大空襲により焼失しました。

その後のトモエ幼稚園も

小林先生の死去により廃園となってしまいました。

ですので現在、小林先生が創立されたトモエ学園は存在しません。

 

86年前。

トットちゃんたちが勉強していた電車の校舎。

キャキャいいながら必死で遊んだ木。

その大きな木は

ひとりひとりの生徒に与えられていました。

 

自分だけの大きな木。

自分のなわばり。

自分の領土。

大きな国は自分の領土をもっと広げるために戦争をしかける。

小さな国は自分の領土をうばわれないように必死で戦う。

大きな木。

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いろんな木があります。

 

映画『窓ぎわのトットちゃん』を

自分の木を見つけたい方におススメします。

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大野りりあなは数学を公文で勉強したのでしょうか? 本名や家族、通っている学校について気になりませんか? 今、話題のトットちゃん役をみごとしとめましたね! 気になるwikiプロフも見ていきましょう。

出典:こたえのない学校 https://kotaenonai.org/blog/satolog/8069/

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典:創立70周年日本私立小学校連合会文集


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